カテゴリー「板の上のことばかり」の11件の記事

演劇に関する記事・劇評などです

2009年11月 2日 (月)

MCR「リフラブレイン」を観ました

Stage10048_1初のMCR 観劇。

直前になぜか貧血を起こし、体調最悪の状態。
というか脱水症状まで起こしていた。
むしろ限界。

アクエリアスを一本ガブのみして気つけをし、観劇。

つまり、絶対に楽しく観られる状態じゃなかった。演劇観るときは遠足レベルの体調管理をこころがけよう、と本気で思った。

ちなみにいまだ体調は回復せず、これを書いているたった今も女のあえぎ声の幻聴が聞こえる。となりの部屋じゃないかって?となりの部屋はおっさんだし、声は耳のすぐ近くだ。 
そろそろかな。
つうかなんであえぎ声なんだよ。いらいらする。

 

■オープニング

僕は観劇するとき、あんま笑わない。
テレビだと笑うんだけど。
爆笑なんてまずしない。
なんでかっつうと、真面目だからだ。俺は、超真面目だ。
ほんとに真面目に観てる。
お芝居は特に、だ。
客席に着いたら、
まず床の素材とか照明の吊り方とか客いれのBGMはなんだとか客層はどの年代でどんなファッションのお客さんが多いかとか、おお。ここの舞監さんいい仕事してんなとか、まあ、舞台人だったら当たり前なのかもしれないけど、そういうところを見る。舞台人はそういうものです。ほんとに俺、真面目だなと思う。真面目な方だと思う。

 

真面目だと思う。

だから劇が始まっても、デハケ口の使い方とか役者のオフの芝居とか目の芝居の入れ方とか(略)
「おめえ、普通に楽しめよ!」
と言われそうだが、これで楽しいよ。笑いたくて演劇観に行ってるわけじゃないし。それでも笑ってる人の30%増しくらいで楽しんでると思う。
俺は芝居を観ても笑わない。笑ってたら楽しめないものがある。
客が笑ってる隙に役者が何を感じているか、とか次のセリフの準備に入る姿勢とか。
いい役者はほんとにそういうところまで隙がない。こういうのを見てると最高に興奮する。
だから芝居みて笑ってるバカがいるか、と俺は思う。
たぶん今年の通算で4回くらいしか声だして笑ってないんじゃないか?
俺は芝居を観ても笑わない。
芝居を見て「笑う意味」が、俺には無い。

 

さて、MCR「リフラブレイン」。→チケット予約はこちら

のっけから俺爆笑。
秒殺。
たぶん3行目くらいだった。
恥ずかしいくらいに笑う。
笑わない俺にとって、これ以上の屈辱はない。むしろ辱めだ。
客に辱めをあたえる劇団がどこにいる。バカか。
姉役の石澤さんと弟役の櫻井さんのふたりでパンを喰うシーン。圧倒的に間違っててスケールのデカいんだか小さいんだかわからない己の価値観を声高に宣誓するねえちゃん。にやにやしながらもねえちゃんのこと好きなんだろうな、という愛情で話を聞く弟は、思春期特有の不安定なグロさを垣間見せながらねえちゃんをたしなめる。
ねえちゃん。
あの、石澤さんの目ったらねえよ。
一発でやられた。

 

■俺とあいつの新喜劇

完全にツボってしまい、石澤さんがしゃべるだけで笑ってしまう。
それどころか石澤さんがセリフをしゃべってないところでも石澤さんを見てしまう。
ついには全然芝居に関係ないところでの石澤さんの顔にツボってしまい、俺だけのタイミングで窒息笑い、という。
俺と石澤さんの間で吉本新喜劇が成立してしまった。

だからもうそんなだから誰が何をやっても、言ってもずーっと笑いが止まらない。
ストーリーの合間に挟まれるのは、自分が爬虫類だということを忘れて光合成にいどんで失敗して死んだ蛇の皮膚みたいに冷たくて薄気味悪い冷淡。
あの、櫻井さんの顔。

その皮膚の内側に、世界中の誰がみても美しい!と絶賛する膿がある。

■役者ってさ

結構な数の役者さんが出ていたと思うが、出てくる役者出てくる役者すべてが魅力的。
すっげえ。
ぶちぬけてるわ。ここ。
福山雅春を50人連れてきても、こんな芝居つくれねえぞ。
あたりまえだけど。
なんだろう。
言いたいことはわかってくれ。

  

■なんかもういやんなった

すげかったなあ。
内容とか書かないよ。書く意味ねえよ。もう絶対面白いから観に行ってください。
ほんと、MCRに知り合いひとりもいないよ。
でもねえ。思うし。書く。これ。

ひっさびさだなあ。
客としてぶち殺されたのは。
ほんとぶち殺された。
最高。 

ほんとかっこよくて、すっげえくやしかった。

ただし、劇場が思いのほか暑く、終演後ふたたび貧血。さらに嘔吐。
なんとか外にでて再びアクエリアスで気つけ。
再度劇場へ。
真夏の走りこみのような必死さでアフタートークに聞き入る。

アクエリアスはほんとすごい。
小学生の頃、ポカリより後発だったアクエリアスに肩を持って飲み始めた。
アクエリアスレモンなどの新機軸にもいちいち喜ぶほどのファンだった。
小学生の頃からサッカーをやっていたんだけど、そのころはまだ昭和しごきの名残みたいなのがあって、コーチが水飲ましてくれなかった。
小学生なのに走りこみやらされたし、勝つためのサッカーをやってたし。
小学生よ?
射精もしたことのないカラダでシビアなカウンター戦術とか何よ。
秋の県大会の時、となりの小学校のうまいやつをひっぱって来て偽名使って出場させるとか何よ。
しかもその偽名は実在する名前じゃないと登録できないから名前貸せって何よ。
レギュラーとられるだけならまだしも、名前を奪われるって何よ。
小学生よ?

 

でも、
そうやってしごかれて鍛えられた俺達が、県で3位のチームとか相手のキツい試合勝ったあとの、そのアクエリアスの味とか。
もう、一生飲み続けたいって思った。うまいどころじゃない。気持ちいい。快楽だ。
あの一口は全部報われたし、俺達のサッカー間違ってない!って思ったんだ。
偽名のやつらもそう思ってたはず。名前を奪われたやつらも。

 

そう。

このアクエリアスのような舞台だった。
好きだ。

 

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2009年10月23日 (金)

B-amiru「ペンパル狂時代」を観ました

Stage11767_1B-amiru
「ペンパル狂時代」
OFF・OFFにて
 
作・演出:イチキ游子

出演:小林由梨、青木岳美、桔川友嘉、今藤洋子、宮本奈津美(味わい堂々)、市川訓睦、田中嘉治郎(リボルブ方式)、岩島もも※声の出演、イチキ游子

「『ボクらが再び恋人として会えるまで、二人は最高のペンパルでいよう。
大好きなキミを世界一幸せにしたいから同じ文面を5人のヒトに送って下さい。』
手紙いっぱいの幸せをだきしめて、あたしは今日も駅で待つ…。
B-amiruと仲間達が個人差のある儚い恋の記憶と共に贈る、秋のオムニバス妄想浪漫!」

■「ペンパル」

僕がイチキさんの台本を好きなのは、「つつましい批評性」があるからだ。
ただの批評性ではない。それはつつましいから価値がある。
言葉を置き換えれば、シニカルさとでもいうのがいいのかな。決してシニカルではないけど。
この時代において、このタイトルをつけるということ。
もはや昭和の遺産である「ペンパル」という行為を賛美しているようにさえ感じる。しかも「狂」だ。さらに「時代」。これはむしろペンパル礼讃だ。崇高ですらある。
mixiを始めとするSNSの拡散によって、ペンパルたちは確実に駆逐されてしまった。
世界中に息をひそめるペンパルたちよ。
下北沢に来るがいい。
ここに、いるぞ。

(こんなこと書くのもなんだが)イチキさんは普段とてもつつましやかな方で、攻撃性をあまり持たない森の生き物だ。だが森が枯れていくことに怒りは感じている。当たり前だ。

その怒りの表し方があまりにユーモラスで、かつ優しい。
彼女ほどやさしい口調で人をキチガイ呼ばわりする人もめずらしい。
とにかく。
僕は「ペンパル」という単語に彼女の怒りを感じた。
しかし、よりによって選んだ言葉が「ペンパル」だ。弱い生き物の名称だ。
この辺に彼女のつつましさと優しさ、ユーモアと狂気が渾然となった凛々しい意志を感じ取れる。ここに彼女ならではのパーソナリティがある。


■男と女の描き方

そろった役者が今回の作品の雰囲気に素晴らしくマッチしていた。
今回のキーとなるエレメントは切なさだ。それもただの切なさではない。B-amiru特有の可愛くないひねくれかたをする切なさ。素直にキュンとはさせない。

狂騒の中にこそ発生する切なさ。
たとえばそれはカーニバルの太鼓の雨の中で折れた子供の腕だったり、その手の平が握っていたキャンディだったり、でも一番切ないのは、狂騒の中で誰にも気付かれなかったこと。結局キャンディをなめる事は出来なかった思ひ出。

キャストのほとんどが狂騒を自家発電できた。
かつ、静寂を慈しむように間を取っていた。
この相互作用によって、こぼれるように切ない表情が見え隠れ、悲しい言葉が語られ、結果、可愛いらしい「人間の瞬間」がしっかりと縁取られ、現れる。

コント設定のように、只単に「あのひとがすき」程度の恋心の描かれ方しかされてないのに妙に生々しく、切ない男女が描かれていたのは素晴らしかった。

たぶん。キャストのみなさんは揃いも揃って恋愛が下手くそなんじゃないだろうか。
そして、その下手さだったり下手な人というのを愛しているんじゃないだろうか。
大人ならではの悲しみと優しさが同時に発生するブルーズ。

浅川マキの「あの娘がくれたブルース」が頭から離れない。
劇中に流れたわけでもないのに。


■帰れない二人

以下、ネタバレ含みます。

オムニバスのラストを飾る「ペンパル教」が秀逸。
この世の青春系作品の王道が「ボーイミーツガール」なら、イチキ脚本の王道は「子供ミーツ変な大人」だ。
子供にしか通用しないような幼稚で誇大妄想(本人にとっては思想やライフスタイル)を持った悲しい大人。どうしようもないが、誰にも迷惑はかけない。つつましいキチガイ。
そんな大人と子供が出会う瞬間。
それは、冒険だ。


近所のおねえさんは文通が大好き。
そのおねえさんをひとりじめしたい女の子が、「ペンパル教」の教祖を名乗る変な大人に出会い、知恵を授かることになる。
女の子は架空の男の名を語り、おねえさんのペンパルになる。
ペンパルテクニックで女の子が書いたニセ男の子に、おねえさんは夢中になっていく。

女の子の孤独がいい。
おねえさんの純情がいい。
場面場面の感情に嘘がないから、ストーリーに渋みがでる。おそらく必要のない渋みが。
いやあ、よかった。
女の子は嘘という罪を犯した。己の独占欲と孤独の癒しのためにおねえさんの純情を騙した。
おねえさんは堕落という罪を犯した。己の利己的な欲求のためにそばにいる人間を思いやることができなかった。
ふたりとも悪気はなかったのに、多くの人間に迷惑をかけた。
その結果、どこにも行けなかった二人は、どこにも帰れなかった。一歩も動かなかったのに、互いを失ってしまった。
純粋さが故に罪を犯す悲しみが悲しかった。
その後悔の様が、美しかった。

美しかったのは、表現者の側にキャラクターたちに対する「赦し」があったからじゃないだろうか。とても優しい瞬間だった。聞くところによれば、女の子の芝居に関しては「イノセントで」という演出指示があったそうだ。

イノセンスという言葉の意味には「純粋さ」という意味のほかにもうひとつある。



「無罪」

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岡崎藝術座「ヘアカットさん」を観ました

Stage8902_1 岡崎藝術座
「ヘアカットさん」
あごらにて観劇。

作・演出:神里雄大       
出演 内田慈 武谷公雄 折原アキラ 酒井和哉 坊薗初菜

『同級生の彼と彼女と、ひさしぶりに再会した。
みんなで楽しく飲んだ。めずらしく彼が今日は楽しかった、と言っていた。それで僕らはカラオケをしたのだけど、ここ何年かで一番のパフォーマンスを彼に見せてもらったのでとてもよかった。
気づくと店員がこの部屋を覗き込んでいる。なんと、僕たちの中に噂の**がいるというのだ。
**はめったに姿を明かさない。僕らは騒然となった。

でも、僕はその騒ぎの中、近所の「さいとう」という床屋さんのことを思う。「さいとう」はなんとも流行らない店構えだ。今日も飲みに来る前、ふと店内を覗いたら、すごい勢いで接客されて驚いて逃げた。僕の切っていない髪が秋の風にそよいだ。』

一言で言ってしまえばディスコミニケーションの物語なのだと思う。
カラオケの享楽と狂騒に、細かに散らばった情けない感情が可愛らしかった。
楽しく、面白く観劇できた。

わかるとかわからないとかの二元論で語ってしまうと、僕はわかった。
知っている感じだった。感覚だった。
完全に渇ききっていて、そこには何も無いという「虚無」だけが存在する。
lostageが大好きな僕からすれば、当たり前で馴染みのある表現対象だ。その先には裂けるような風景がある。

着地の難しそうな構成、セリフ。演出。
ナイトダイビングに放り出されたような不安感。しかし彼らは見事に着地した。美しい着地だった。ただ、そこには独りしかいない。一緒に飛んでいた仲間も時間も全て無駄なものだった。ただひとり、暗闇の葛西臨海公園に着地した。どうしようもなく寂しいが、着地成功なのだろう。

成功の褒美は孤独。
孤独。
孤独。

開演からしばらくは、寸劇と言うか、マイムというか、コンテンポラリーというか、セリフとカラダを連動させる絵が紡がれる。
ずっと頭の中を「1.5列目。1.5列目」というフレーズがリフレインしていた。
気持ち悪いのだ。
変なのだ。
明らかに客席まで届いていない。かといって板の上だけで完結しているわけでもない。
この変さがまず、面白かった。
ステージと客席の中空に向かって撃ち続けられる言葉。誰にも届いていない言葉。
たしかに、「わけがわからない」「何て言っていのかわからない」という作品だと思うが、そうなっている最大の要因は構成でも演出方法でもなく、この距離感なのではないか。

僕は、言葉に関する現代アートのノベルティに残された最後の可能性は、この「中空」だと思っている。まあ、これまでの誰もが手をつけなかったから残っているだけだが。
なぜならば、難しいからだ。わけがわからないし、何もないし、中途半端だからだ。
その困難さの割りに、メリットは極端に小さい。
それほど美しいわけでも無いし、面白みは「新しい」だけ。
神里さんは何が欲しいんだ。

そこに触れる人が、まだいるとは。
90年代の中期ぐらいまではまだいたんだ。
もう、いない。
みんな死んだ。
みんな辞めた。

まあ、なんか劇評というか芸術評っぽい文章はここまでだ。
僕は神里さんにこう思う。
照れないでくれ、と。
なので僕も照れずに書く。

改めて。
「面白かった。」
身体を震わせてまでして、ようやく放たれる言葉がものの見事に外れていく空しさ。
キートンの映画のような悲しい可笑しみがある。
蛍光灯の白々しさ。
数々の無表情。
意図的に仕込まれた不快感。
ネガティヴな要素が着地点であるラストシーンに向かって変容していくスクリプト。手を繋ぐカラダ。どれもレベルが高かった。

なのに、なのに。ほんとにとんでもなく惜しいのは、作者の苦しみが滲み出てしまっていたことだ。こういうものがにじみ出てしまうのは、照れのせいなんだと僕は思う。
あともう少しだけポジティヴなものが見えていたら。
途中で渡辺美里の一曲でもかかっていたら。
あともうほんのすこしだけ。すこしだけダサかったら。
ラストの孤独がもっと愛おしかったはずだ。

ごめんね。ほんとに主観的な意見だけどさ。

孤独を孤独に描いて欲しくなかった。マジで脱力してしまった。くらってしまった。
見終わってからゾワゾワして、気持ち悪かった。
「救いがないのが救いだ!」
なんて息巻いていた時期が僕にもあったが。孤独は人間の故郷であるべきなんだよ。孤独を描くなら、逆味のあたたかみをもっと足してほしい。
ハードコアになってしまう。
僕はやられたのだ。
だから好きだよ。

はい。照れのない内容はここまで。

役者さんとしては、酒井和哉、内田慈さん、坊薗初菜さんが印象に残った。好きだった。

和哉は一回一緒にやってるから、彼の魅力は知ってるので書かない。
いや、やっぱちょっとだけ。
相変わらず俺の好きな目をしてやがったよ。ぶんぶんカラダを振り回すところがなんとも切なくてよかった。骨折れてしまえ、と思った。愛情で、ね。クレバーな役者だと思うんだが、もっと不器用さを愚直に観たい、と思った。

内田さんは先月、本多劇場でやったG2さんの「静かじゃない大地」で拝見して一番印象的な役者さんだった。今回もよかった。声のビブラートが卑怯。
うん。卑怯。
見事なまでに卑怯。その卑怯さを臆面もなく披露する清々しさがなんとも素晴らしい。南米の花みたいだ。和服でサンバ踊りそうだ。この公演における変さの中において、彼女の色はすごく効いていた。なんかよくわからんが、宮本武蔵の話でおつうをやってほしい。なんかよくわからんが。ミスキャストかも知れないが、観たい。妙に生々しいおつう。

坊薗さんは初見。
坊薗さんとは面識もないのに知り合いの映像作家さんに突然「坊薗さん紹介してくれ」と頼まれたことがあるのでこの名前だけは知っていた。
歩き姿の美しさと頼りなげな眉間が魅力的だった。

(こっからネタバレ)

最後の歌はほんとに効いていた。OPでは聞こえなかった歌詞がバンバン入ってくる。
演出上にも台本上にもガンガンに効きが入っているが、やっぱ坊薗さんの声、容姿、眉間があってのものだろう。お見事。息が切れてメロディーが無くなっていく様は、迷子になった5歳児のように寂しくて、美しかった。


以上。

ぼくもがんばろう。

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2009年8月10日 (月)

青☆組「花とアスファルト」を観ました

0.誰かの私生活を通り抜け
Stage9265_1 小竹向原の駅を出て、ゴルフ練習場の合間の道を抜ける。
小さくて硬質な高密度の破裂音を耳にしながら、誰もいない交差点を抜ける。
夜になったばかりのアパートが連なる。
塀で猫が何かを悩んでいる。
かくれんぼをしている大人しいこどものように、息をひそめてその劇場はあった。
「アトリエ春風舎」

月が浮かんでいた。
月が動いたら、何か巨大な音がしそうだった。
月がそんな風に見えるとき、
いつも喪失の予感がする。

 

1.すみれ

青☆組HP より)
「花とアスファルト」
『生活の中で誰かに出会うということと、人生の中で誰かに出会うということは違う、と言っていたのは、どの小説家だったろうか・・。
さて、今回は、愛読しているいくつかの小説にインスパイアされて生まれたおはなしです。
おはなしは、こんな風にはじまります・・うららかな春のある日、小さな町の小さな団地に、「とても珍しい」住人が引っ越してきた。
ひとりは、女。
もうひとりは、・・妙に毛深い。爪もある。いたって温厚だが、どうやら、クマだ。
きっと、素朴な作品になると思います。
長いこと忘れていた、夏休みのあの日みたいな、そんな素朴な味を地道に煮詰めて美味しく仕上げたいと思っています。そっと、爪を立てながら。
ぜひ、遊びにきてください。』

以上が作品キャッチ。
まるで久しぶりの友人から届いた手紙のようだ。

【久しぶり】とはつまり過去というものを共有している仲ということだ。
「ひさしぶりじゃーん」
と笑顔で再会するなら、大して時間は経っていない。まだ記憶は鮮明で、会話はむかしがたりよりも、むしろこれからのことや最近の愚痴を語るだろう。

「本当にひさしぶりだね」
と少しこわばった微笑みで再会するなら、随分と時間が経ってしまった。
往々にして自分の覚えていないようなエピソードを相手は知っているものだし、思い出したくないような事を思い出してしまうかも知れない。
だから反射的にこわばってしまう。

ひさしぶりだね、とも言う合うこともないような再会もある。
そんな再会をする相手は、ただひとりだ。
それは最もかけがえのない存在。

その存在は、
すみれの花のようにつつましく、小さく。
かよわい声で叫ぶ。
人生で出合った誰よりも正しく、誰よりも強い言葉を持つ。 

 

2..なめとこやま

青☆組は今回で2回目の観劇となる。
前回は短編で、奥さんがたくさんいる旦那さんのお話だった。
家族倫理がちょっとばかり狂ってしまったフィクションだったが、これが面白かった。
僕が敬愛する藤子・F・不二雄先生の短編で描かれるような、すこし(S)ふしぎな(F)世界。
誰にでも書けるものでもない。
藤子式SFを成立させるには、作家自身の常軌を逸したパーソナリティが必須だ。
常軌を完全に逸脱した=人間離れした「やさしさ」が必要なのだ。

今回は「花とアスファルト」。
主人公は獣。ヒロインは初老の女性。
藤子作品でもよくモチーフにされる「ストレンジャーもの」である。
ストレンジャー=よそもの、異物。
みんな馴れすぎてピンとこないかもしれないけど、ドラえもんだって異物のものがたりなんだよ。 

この作品は吉田小夏の世界だ。
セットは単色にして淡色。椅子が丸く配置され、周りをコロッセオのように階段とささやかな踊り場が囲む。
世界に丸があり、そこにくまがいる。
一発で宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を思い出した。
(まあ、この作品のストレンジャーはまたぎだけど)

刺激をされたのだろう。
くまの集落でおまつりの日に死んでしまう女の子の物語が僕の頭を覆った。
女の子は急性クモ膜下出血で、くまたちが何のすべもなくうろたえて、泣いている映像。
つめがあるし、毛が硬いから抱けない。
せめて、その骸を抱きたいのに。

 

3.森はどこにある

ここにもかいたんだけど

くまがピクニックで彼女の足だけをスケッチする(けどうまくかけない)シーン。
それがチラシの写真とリンクするところ。
くまが描こうとしていたのは、彼女が少女だった頃の足だった。
と、いうところでシビれた。くま、かっこいいじゃねえか、と。
でも描けないんだ。
くま、寿命が短いから。もう機能的に、絵なんか描けないんだよ。

最後の別れで、何の逆転もなかったさみしさ。
くまが最後の挨拶でたべもののことばかりお礼を言うところ。
ほんとにさみしくなっちゃったよ。

そして、森に帰る。
くまが住んでいた団地のほとんどのひとがさみしがらないで、日常はロールしまくっている。
彼が帰るのに、たいした理由はなかったから、さらにさみしくなった。
なんで森に帰ってしまったのだろう。

そこは、特別な森なんだろうな。
生き物にはみんな、帰るための森がある。

彼が帰った森は、
自分の幼少期における傷をたくさん閉じ込めている、記憶の森なんだろう。
以前自分のおじいちゃんが死んだ時に思ったが、おじいちゃんは最後、少年に戻って死んだ。
たぶん、死ぬっていうのはそういうことだ。
そういや葬式の時、僕の母が娘に戻っちゃってたな。あれは美しかった。

今回の作品で吉田小夏が描いたもの。
それは舞台となった団地から遠く離れた場所に、夕陽を背に巨大な影となってたたずむ、やさしい森だ。
それは遠い。
本当に気が遠くなるほど遠い。
遠い場所にある。

少女の足でそこまで歩くのは大変だったろう。

 

4.花とアスファルト

相反的な要素を持ち合わせている作家は面白いと思う。
今回のタイトルなんかは、まさしく小夏さんの相反的な要素そのままだ。
物語が、その両極端に振り切れる時、客席にいるとなんとなく音楽が聞こえてくる。

花のエレメントでは、両手を広げているような光のイメージ。
たとえば、
メグ・ベアード「Dear Companion」

アスファルトのエレメントでは、家のどこかに隠れて、自分しか知らない最高に楽しい遊びをしているイメージ。もちろん見つかったら怒られるような遊びだ。
家が団地ならなおさら隠れるスリルが高い。
ヨ・ラ・テンゴ「The Summer」

 

5.喪失

僕も最近、プロットを書きつづけている。
ネタ帳を見ると、自分も女を描写することが多い作家なので、なにかしら女性に関するメモ書きが多い。
その中で
「壮絶な処女の喪い方」
というメモがあった。
この一言しか書いていなかったので、具体的に何を考えていたのか覚えていないが、なんとなくわかる。
もし、本編でこのイメージを採用し、描くとしたら。
できれば書きたくないシーンだろう。
でも、一番美しいシーンになる可能性も秘めている。
残酷なシーンとはそういうものだ。
目を背けたくなるものほど、逃れられないものがある。
忘れられない感情になる。
たとえばリリィ・シュシュのレイプシーンとかね。
呑んでいるとき岩井俊二の話になると決まってこのシーンの話になって、酔いが醒める。

絶対に小夏さんはそういうものは書かないだろうけど、
もしも彼女がそういうものを書いたとしたら。
この映画 みたいにすごいことになるだろうな、と思った。

「青☆組」は完成されているだとか、洗練されているだとか安心できるとかいう評判をよく聞くけど、僕は逆のものを感じる。

「花」の要素でも「アスファルト」の要素でも、潜在しているエネルギーがでかい。
彼女が何かを喪失した時、そいつらがバケモノになって板の上に(もしくはスクリーンに)現れるんじゃないだろうか。
と。
そういうインスピレーション。
ただの直感なので頼りない論ではあるが。

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2009年7月 1日 (水)

Reset-N「眠るために目醒める」を観ました

0.タコパ

昨日催されたタコヤキパーティのおかげもあって、
ここ最近の精神的な弱まりも解消された。
パーティの素晴らしさを思い出したよ。
たかがたこ焼で大騒ぎしていた俺たちは素敵だったと思う。いや、「たかが」じゃない。
たこ焼は偉大な食べ物だ。
たこ焼に多くの未来を見出した昨夜の俺たちは、どこまでも正しかった。
 

 

1.透明

明けて、本日。

初のReset-N観劇。王子小劇場にて。
Nemuru700

 
 
 
 
 
 

特筆すべきは、やはり「透明感」。
これに尽きる。

「透明感」の理由を追求することがResetを語るということなんじゃないだろうか。
観念的ではある。
だが、今、僕の頭の中に巣食っているこの観念を写実して語ることができたら、何かしらアートの本質に近づけるんじゃないだろうか。

今日の記事はそんな挑みで書いてみる。

Reset-N「眠るために目醒める」

【作・演出】 夏井孝裕

【出演】
 鶴牧 万里/原田 紀行/田中 のり子/山田 奈々子
 日高 勝郎(InnocentSphere)/山前 麻緒(劇団夜想会)/西尾 美鈴

【作品概要】
役名はすべて本人。
今回の作品を作る過程がドキュメントとして描写されている。メタフィクション。
演出家が来ない稽古場と、その演出家の部屋との二場面で構成される。
いわゆる「物語」はない。

 

 

2.風景

日常そのものが舞台の上に寝そべっている。
それをナイフとフォークで丁寧に切り分け、少しずつ少しずつ口に運ぶような、ある意味変質的な食事を想起させる、奇妙な肌触り。(その点では三島由紀夫っぽいかも。)

舞台装置、照明、音響の噛みあい方がすごい。
素晴らしい可視環境。

台本の言葉と、役者の声と、眼前の色合いが渾然一体となっているのに、
ここに一切のカオスがない。
風景がどこまでも深い、透明。

たしかに大衆性は無いかもしれないが、
(そもそも「大衆性」なぞ相対的な価値でしかない。)
この作品の面白いところは大衆性が皆無であるのに、強固な普遍性があったことだ。

決して特異な劇団ではないと思う。
このような試みをポップシーンに提示してきたアーティストは多くいる。
僕がReset-Nを観て連想したのは、二枚のアルバム。
それは後世のポップミュージックに多大な影響を与えたバンドだ。

 

 

3.アンダーグラウンド

ひとつは、60年代のNY、Factoryと呼ばれる工房で活動していたバンド、
「The Velvet Underground」
卑猥で猥雑な実験的ノイズ
ビートニク的感性で完膚なきまでにソリッドに描かれた歌詞
不気味なほどに優しいメロディーライン
女性の独り言を回想する楽曲「Candy says」に始まり、目覚めへの恐怖を綴った「After hours」に終わる、ヴェルヴェッツのサードアルバム「Ⅲ」(奇妙な一致だ!)
今回の作品の退廃性とその甘美、つまりはデカダンスという背徳の果実がステージの上にあったということだ。

もうひとつは、
90年代、偉大なバンド、
「My Bloody valentine」
90年代のロックミュージックにおける最も重要なバンドのひとつ。
アルバム「Loveless」は、シューゲイザーと呼ばれたカテゴリーでは金字塔である。
このアルバムで表現されているのは、血の雨が40日40夜に渡り凶暴に降り注ぎ、やがて世界が羊水の洪水で滅亡してしまうような圧倒的な音像。
なんだろ。
死ねば死ぬほど産まれてくる、というか。
生物のおぞましさを、これまた甘美な味に仕上げた美しいアルバムだ。

Reset-N「眠るために目醒める」

実は、この作品で描かれていたものは「退廃」なのではないだろうか。
眠ったままのヒロイン。
自らのエゴに埋没した演出家。
夢想家の作家。
無力な役者たち。

実は誰も、出口が見つかっていない。
実は何も解決していない。
未来に希望を持てない状況を「退廃」と呼ぶ。

「退廃」を肯定的に描写する。
ぶっちゃけ、この行為は人としてタブーだ。 
そして、このタブーに触れることは…。

あえて、(誤解を覚悟で)本音で言ってしまおう。
タブーは、
人間の快楽だ。

人類史上最大のベストセラーである「聖書」に出てくるキャラクターにアダムというすっぽんぽんの男がいるが、こいつは人類の祖なんだそうだ。 
んで、こいつがほんと誘惑に弱くて、神様が「駄目だよ」っていったことばかりするし、食べるなって言われたらすぐ食べちゃう。
林檎が好物。だって食べちゃ駄目な果実だから。
「味なんかどうでもよかった。」

でも、最高の味だったんだろう。

アーティストにとって、アンダーグラウンドで活動するということの最大の目的は、
この果実なのかもしれない。  

 

 

4.夢

劇中、演劇の本質について語られる。
「目に見えないものを見せる」 

こういったアイロニーは、夏井さんの台本の可愛らしい魅力だ。

演劇は、面白い。
お客さんの目の前で、生でやっている。

実はこの「生」。
最大の面白さは、生でやることのスリルではない。
眼前で起きる迫力でも緊張感でもない。 

演劇は、一度劇場で椅子に座ってしまえば、そこから動けない。
その椅子からの風景のみが、「見えている」風景である。 
しかし、多くの演劇作品の真のゴールは、ここで「見えていない」風景にこそある。
シェイクスピアも、モーパッサンも、デヴィッド・オーバーンもそう。
この矛盾が演劇の面白さだと、僕は思う。 

見えている景色は「ヨリシロ」にすぎない。
ようはこの可視環境の向こうの景色がどれだけ、見えるか。
見えるものは、
遠ければ遠いほどよい。
多ければ多いほどよい。 
深ければ深いほどよい。
実に単純な価値基準だ。

一番「見えている」状態とは、つまり、透明であるということ。

完全に「醒めている」状態が必要となる。 

今まで僕は、この透明感は劇作家の純性に依るものだと思っていた。
そしてこの純性を支えるものが、愛という観念なのだと思っていた。
それが見事に覆された。 
愛は、夢の中でしか生きられない。

愛は、感情だ。
感情は現実を濁らせる。景色を濁らせる。
そのくせ記憶を美化する。
人間関係を美化する。
かけがいのないものほど、景色を濁らせてしまうと言う矛盾。

醒めるためには、それらを否定しなければならない。

 

 

5.宮本とパンを食う

終演後、宮本奈津美と会った。
彼女もまた、この作品の観劇に来ていた。
劇場近くの店でパンを食いながら、お互いの近況について報告し合う。
チェリーブロッサムハイスクールの公演時には、何度か主役をやってもらった宮本。
主役をぶつけて書く、という行為はなかなか面白い現象が起きる。
大抵は主役が作家の、一番の分身である場合が多い。
血が似てくる感覚というか、肉親のように直感的に分かる部分があったり、双子のように同じ病がリンクしたり。

お互いにいろいろと話す内、なんだか泣きそうになった。
俺も宮本も繊細なんだと思う。

でもな、宮本。
この繊細さは、今の俺たちの首を絞めている原因のひとつではあるんだぜ。 
傷つくことを恐がらずに、笑いながら板の上で生きていくべきだ。
どんなことがあっても、だ。

と、ここまで書いて思う。

チェリーブロッサムハイスクールを辞めて、今後はひとりでやっていくわけだが。
今の俺を支えてくれている人たち、みんな繊細で、みんな笑顔が可愛い。
そして、ひとりのこらず変態だ。
人は、歪みこそが可愛いし、愛おしい。

話してないし、面識さえないけど、
Reset-Nの夏井さん、愛おしい。
人間の繊細さは弱点だし、
英訳の「ナイーヴ」は馬鹿って意味だったりする。
得てしてネガティヴな要素だし、僕は自分の繊細さを呪ったり、許容したり大いに苦しみながら生活してきた。

だから、 
繊細さを武器に変えれる人をみると、すごく嬉しくなるし勇気がわく。
ある意味、ヒーロー的でさえある。
あんなとこからビームだすのかよ!みたいな喜び。

夏井さんに限らず、そういったアーティストをたくさん知っているが、夏井さんはなんか、その中でも特殊な気がする。
その特殊さが何なのかは、今はわからない。

漠然とした、勘でしかないが。

いつかReset-Nの作品から繊細さが消えた時、
新たなポップのスタンダードが生まれるだろう。

その日、もしかしたら淘汰の時代が始まるかもしれない。
また新しい時代が始まる。

その時が来るとして、
僕は「キコ」という娘と共に、板の上に立っていたい。
カーテンコールで笑いたいし、打ち上げで泣きたい。

まずはホームページビルダーか…。
企画書かいて、いろんな人に会おう。
楽しみだ。

結局俺の話になっちゃったな。

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2007年5月22日 (火)

ソ・ダンソ・サンバ

本日はお日柄も良く。

渋谷へ。久しぶりにのんびりと渋谷を物色。

最近は用がないと来ない渋谷。

上京したてのころは大好きだったブヤ。ブヤから原宿まで歩いて道すがらに洋服を買ったりなんだりというライフがたまらなく好きだった。都会コンプレックスの裏返しでしかないわけだが。

それはまだ「裏原宿」という言葉もないころの話だ。

シメは「ばさらか」というラーメン屋で舌鼓を打つというのが小栗流ウラハラウォーキンの鉄則。

いやあ、ほんとどうでもいい。

ってか、ホントに変わっちゃッててなんの感慨もないわ。やっぱ代官山方面に散歩すべきだった。スモールフェイセズ聴きながら。

(わかるひとはわかると思うが、代官山=スモールフェイセズという解釈はかなり恥ずかしいですよ。READY STEADY GO!)

これまたどうでもいい。

 

夕方に下北に移動。

うちの雪森しずくが出演しているプリセタという劇団の「ロス」を観劇。

しょっぱなから雪森のビンタが炸裂した。

 

僕もうちの公演で彼女のビンタを受けたわけだが、彼女のスイングは恐ろしく速い。

しかも僕の場合、台本上そのスィングをキャッチしなければならなかったのだが、稽古中ほとんど成功しなかった。渇いた音が何度も稽古場に響いた。耳鳴りのキーーーンがクセになった。ほんとに速い。僕も動体視力は結構いいほうだと思うんだ。でも、見えない。

雪森のスィングは見えないんだ。

オズマだ。

だから、肩の動きをみたり目をみたりしてなんとか動きを読んだ。

格闘技の領域じゃねえか。これ。

まあ、そのくらいに雪森のビンタは洗練されているというわけだ。

しょっぱなからこれが拝見できたことは、ナイスな体験と言っていいだろう。

全体としてはコンパクトかつスマートにまとまった非常に観易い芝居だった。退屈はしなかったし、芝居自体もつくりこまれていたように感じた。

雪森の芝居も僕の知るようなモノとはまた違った一面が覗けて嬉しい気持ちになった。

「ああ、こんな声も出るんだ!」

という。

まあ、この声色は出るとは思ってたけど。改めて、いい役者さんだと思ったよ。手前味噌ですが。

とかくは、おつかれさんだよー。

 

 

観劇後に下北を散歩。

やっぱ変わってる。僕が好きだった下北ではない。これからさらに急速に変わるんだろう?

さびしいっつうか、わびしい。

もうね、どうでもいい。

変われよ、ばか。

 

変わらないものなんて無い。

なんてこたあ、さんざ分かってるつもりなんだけど。

やっぱ、なくなっていくってのは耐え難いです。たかだか10年じゃねえか。

ほんとに、「昭和」も「ぼくらのユースカルチャー」も消えてく。

消える必然がいまいち分からないもんで、やりきれないです。

 

こんな風に時代に取り残されて、後ろ指差されるような恥ずかしい大人になるんでしょうかね。

上等ですよ。

みんないっちゃえよ。

僕はいつまでも昭和52年ですよ。

明日の夜もネクタイ締めて荒川の土手でギター弾きますよ。

思いついて台本のセリフをブツブツつぶやきますよ。

遠くで花火やってる中学生に絡まれますよ。

たばこを一緒に吸いますよ。

これでいい。

 

これも。

どうでもいい。

そんなことより、ディズニーランドに行きたい。いい気候だもんな。

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2007年4月10日 (火)

A farewell to 「EXPO'85」

ご来場いただきました皆様。

 

只、これを言いたい。

有難う御座いました。

 

 

心より御礼申し上げます。

 

終了しましたので、ネタバレ的な事も含み、少し書かせてください。

 

今回は一組のツガイである男女の恋を軸にストーリーを紡ぎました。

テーマは「血」。

親から受け継いだ血。民族としての血。オスとしての血。女の血。

ここに1985年に筑波で開催された科学万博という「特殊な記憶」を組み合わせ、アナログとデジタルの関係性を見せながら「人間の原罪」を浮き彫りにさせるというのが今回の脚本の試みでした。

その作業のプロセスにおいて「部落差別」を取り扱うことを決心しました。もちろんタブーだということは重々承知しておりましたが、タイミングは今だと判断しました。

昨今の日本は格差化の傾向が強く、今のような米国的経済スタイルを続ければ間違いなく新たな差別が生まれます。もしくは蒸し返すかもしれません。現にネット上や書籍業界では朝鮮人に対する過度の中傷が流行しています。次世代における「差別」の温床はすでに出来上がっているのです。

差別心を発露させる可能性は残念ながら誰にでもあり、できることならこれを赦すことで逆説的な批判ができないかと考えました。人間の原罪を虫という言葉のメタファーを通し、内省することで解決の糸口にならないか、と。

私は、以上のような理由で部落問題を取り上げました。

 

もし社会派というレッテルを貼られてしまうと活動の邪魔になるのであまりこのような事は書きたくないのですが、今回はデリケートな事象を取り扱ったのでここに「あとがき」として書かせていただきました。

コメントを受け付ける設定に変えましたので、意見等御座いましたら書き込みいただけますよう、よろしくお願いいたします。

 

 

 

この舞台を作るにあたり尽力いただいたすべてのスタッフ様。

美しい照明を当ててくださった関さん。絶妙の音を響かせて頂いた牛若さん。心強く舞台を支えてくださった順平さん。

チェリーのメンバー。

手と体と目と声で最高の芝居を「物を語って」くれたキャストの方々。

送り手の気持ちはひとつでした。

 

 

そうして出来上がったこの物語を受け取ってくださったお客様。

有難う御座います。

物語は完全にぼくらの手を離れていきました。

今は皆様の手元にあります。

 

さらば、「EXPO'85」

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2007年1月29日 (月)

とっくん

今日はひさびさに代官山へ。

状況したての頃を思い出す。「東京のお洒落な人」になりたくて闇雲に歩き回った代官山。

無理して買った変なハーフパンツはもうどこかにいってしまった。

READY STEADY GO!で買った青いサングラスも酔って川に流してしまった。

でも、上野で買った赤いアディダスはいまだに着ている。

僕が東京ぶれるのは上野まで、ということだろう。

今日も、代官山で迷子になった。

 

 

とにかくはなんで己に似つかわしくない代官山に来ているかと言えば、観劇である。

前回のチェリーの「酸素」にも出演してくれた土倉有貴さんが出演する舞台を観に来た。

結局、止むを得ない状況に陥り、その辺に歩いてた小学生くらいの女の子に道を聞くはめに。

女の子はバシッと教えてくれた。さすが東京人。

だけどなあ。女。いい気になるなよ?土倉くんだってバリバリの東京人だかんな?

俺は土倉くん知ってんだかんな?なめんじゃねえぞ?

 

とりあえず御礼にとバックの中に入っていた石鹸を女の子にあげて、劇場へ。

いつも観るような小劇場とは違った会場にオドオドしながら着席。

座ってしまえば土地なんか関係ない。単純に舞台を楽しむだけだ。落ち着く。

噂に「とにかく若くていいよ」とは聞いていた。何を年寄りじみたことを言うんだと思っていたが、いざ観てみると僕も

「若さっていいなあ」

と思ってしまった。

何がどう若いのかはよく分からない。板の上にいる役者たちは若いといえど安定感のある実力者たちだし、ストーリーも若さのほとばしるような内容ではなく現代を冷静に見つめた台本だった。

たとえばこの本をチェリーで演ったとしてもダメだろう。ドヒャーっとなるだろう。

この、「YELLOW LABEL」というユニットの特異性が醸し出す、若さ。

それは高校一年生の春のような、長く受験生活で出来なかった部活が「やっとできる!」みたいなエネルギーに似ている。

なんらかの感情が体を突き破ろうとするような「肉体性」が演技の節々から見えた。土倉くんがホモだとカミングアウトする場面あたりからさらにそれが浮き彫りになったように思う。

高校サッカーしかり、そういうものに直面すると嬉しい気持ちになる。実に清々しい気分で劇場をあとにしようとしたその時。

ロビーで僕と同じようにオドオドしている田舎者がいると思ったら、田中だった。

こいつも「酸素」に出演してくれた役者さんだ。仲間(オドオド系の)がいることが相当嬉しかったみたいで僕の体をベタベタ触ってくる。ういやつだ。

「東京こわいねー!」

と大声で喋りながらプリプリと歩いて代官山を後にした。

 

川口に帰ったあと、自分の三十路イベントについて考える。

とりあえずYAMA-Dに行き、少し早い誕生日プレゼントを自分に買って、ホクホクとパソコンに接続。これで音楽がググッと近くなった。ようするにipodだ。YAMA-Dポイントが貯まっていたので安く買えた。

大好きな音楽と一緒に遠くに行こう。

僕は明後日、日光に行く。

大切な場所だ。

三十路はハタチと同じような重要な区切り。行けば禊に近い気持ちにさせてくれる日光が最適だ。厳かな気持ちで東武鉄道に乗ろう。日光の神様には会えるだろうか。

ドキドキする。

 

 

 

とにかくは、トッキー。おつかれさま!

素直に、かっこよかったよ。

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2007年1月27日 (土)

ある決断が必要とする正確な時間を

おとつい。

共にコモディイイダを常用する仲間でもあり、劇団の仲間でもある渡部ラムさんと同伴で、「7の椅子」の芝居を観に行った。

「7の椅子」http://www.d1.dion.ne.jp/~attomaac/nananoisu.htm

諸事情と概要は渡部のブログでhttp://watanaberamu.cocolog-nifty.com/blog/

 

オムニバス形式で展開するコメディー…。というか一概にコメディとは言えないわけだけど。

「SF」を感じた。

サイエンスフィクションのSFではなく、僕が心酔する神である藤子・F・不二雄先生いうところの「S(少し)F(ふしぎな)」物語。

日常に起こりうるギリギリのフィクション。誰もがふと思いに耽るようなフィクション。

「もし時間が戻ったら…?」とか「もし、自分がもう一人この世に存在していたら…?」

そんな発想の種子がポップに展開していく。

ハイスピードのセリフの応酬と小気味いいストーリーテリングは圧巻だった。

役者さんたちが皆うまいし幅が広い。なるほど、7の椅子だ。

この椅子にはもう、然るべき役者(と制作)が座っている。この面子だから実現できる舞台なんだろうなあ。

現場のカタルシスが伝わってくるとすごくうれしい気持ちになる。

ウチの色と少し似ている所もあるし、お付き合いできたら楽しいことになりそうだわ。

ダラダラ書いちゃったけど、要は面白かったから皆観ればいいのにってことよ。

28日(日)までやってるわ。

明日じゃない!

 

 

あたしは最近、EXPO’85のチラシ用に使われるかどうかも分からないイラストを描いてるの。台本の直しもそっちのけよ。これが楽しいの♪いいわあ。二次元って。体の線をひっぱる時はドキドキなの。マグロを下ろしてる気分よ。素敵な瞬間なの。

虚構を作る作業って、いい。

現実よりもよっぽど素敵。虚構の世界にまずいラーメンは存在しないもの。

あ、ラーメン!

昨日今日って連発でうまいラーメン屋に出会った!

やっぱいいよ、ラーメン。うまいものって素敵だけど、ラーメンの素敵さは違う。

美味しんぼの作者曰く「ラーメンの情熱は暗い情熱」だかなんだか。

忘れたけど、ツボった名言がある。

 

 

小栗、30歳まであと三日。

来週からラーメンブログになります。

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2006年9月 4日 (月)

経済とHとラムとTV

最近、1459503 アルコホリックな日々を送っておりまして。

そりゃあもう、猿のように呑み続けています。

ある意味、実験。

ある意味、自傷。

なんかたまに、唐突に「堕ちてみたくなる」わけです。

堕ちるだけ堕ちて、不浄な人間になって、最悪な精神状態になって。

そんである日突然、

「浄化したい。」

と思って、マラソンやら禁煙やら真逆のことを始める、と。

これがパターンです。

モノを書くときの。

つまりはそろそろ、次回公演「Expo'85」の脚本執筆にとりかかるわけです。

なんでこういうプロセスを踏まないとモノが作れないんでしょう。

もはや、性癖の域ですね。

なんなんでしょう、この「儀式」みたいなの。最悪です。

 

 

と、まあ。

もうちょい下まで堕ちたいところですが、内臓のいろんな部位がアラームを鳴らし始めたので、そろそろかな。

と、おもっていた矢先に、観劇の機会です。

ナイスタイミング。

本日は、高円寺明石スタジオにて。

演劇ユニット「経済とH」  
http://keizaitoh.blog43.fc2.com/
第1回公演 
平田オリザ作 「北限の猿」

ブラジリィー・アン・山田演出

 

平田オリザ氏の作品は好きなので、観たいなあと思っていて、観ました。

もちろん、青年団の公演ではないわけで、どのように脚色されているのかも楽しみのひとつ。

演出の方は存知なかったのですが、おそらくお若い方なのだと思います。

青年団の作品とはまったく違うニュアンスになっていたし(当たり前か)、役者さん達の芝居もかなりのクオリティで、感服しました。

これは難しいよ!やるの。

普段から平田氏のレッスンを受けているならまだしも。やっぱ役者ってすげえなあと思いました。

ユニットという形式もあり、なかなか呼吸の合わない部分も多々見られましたが、それが逆に役者の個性が見えて面白かったです。

気になった役者さんは、

Image024 このかた。今、HPから搾取してきました。

足利さんという方です。

僕が平田オリザの作品で好きなのは、「かよわいエロス」の要素です。

日常生活の中で、最もリアルなのってセックスだと思うんだけど、平田氏の作品で描かれるそれは、もう、なんつうか、ほんとに、痛烈。

「ああ、こいつらやったんだ。」

というのが、痛烈に表現されてる。

それも、ほんとにさりげなーく。さりげなーく。それはまさに、僕が演劇という媒体でやりたいことのひとつ、「皮膚の下にもぐりこむポップ」なんだな。

観終わってからなんとなく、コーラが飲みたくなる。けど、理由はわからない。

観終わってからなんとなく、恋人に会いたくなる。 恋人なんていないのに。

 

と、いうね。

足利さんはそういうのを表現していたと思う。

面白い役者さんだった。

そしてこの人。

Image059 山本了。

かつて共演させていただいた機会があって。

今日は久しぶりにたっぷりとこの人の芝居が観れて、良かった。

なにを演じても、なんでかよくわからないけど、狂気がにじみでてる。

なんでかわからないけど、不穏な予感がする。

あと、もう単純に、声が好き。

ウチの野田さんも狂気のにじみ出ちゃってるタイプなんだけど。

また、違うんだよな。質感が。

今後も注目の役者であり、プラス、作演も手がける山本さん。12月の公演も楽しみです。

 

 

観劇後、高円寺を散歩しました。

非常に懐かしく、学生時代のノスタルジアに浸りつつ、思い出を捏造したりしつつ、帰宅。

ひさしぶりにテレビを点けました。

テレビ埼玉。

友人がナレーションを担当している番組なんですが。

その友人が所属する劇団の紹介をしてたんです。それに今度、ウチのラムが客演するわけです。

でてました。ラム。地上波初登場です。

わざわざウチの劇団Tシャツを逆に着て、「チェリーブロッサムハイスクール」のロゴが見える様にする、ささやかな一生懸命さに心撃たれ、吹き出しつつ。

妙に嬉しかったですね。テレビごときに喜びを爆発させてしまいました。

やっぱり根っからの田舎者なんですね。

そういや、ラムのおかっぱ度が上がってました。

1 ゆくゆくはこの位になってほしいです。

http://www18.ocn.ne.jp/~cbhs/

 

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2006年8月20日 (日)

B-amiru「寺内眼鏡太郎一家」を観ました

http://www18.ocn.ne.jp/~bamiru/

「町を捨てよ、家族になろう」
引きこもりB-amiruが初めてできた仲間達とおくる
全速力の現実逃避
銀河鉄道・バカ専用車両の夜…

こんばんは。小栗です。

先週のブログでも書きましたが、「酸素中毒」。

先日、故郷に帰っておりまして。

中毒症状の収まらぬまま(ようするに挙動不審のまま)、自分の思い出プレイスを廻ったり、うまいものを食ったり、母とデートしたりしている内にすっかり「ヘボつよし」に戻ってしまい、とりあえずは我が日常に帰還した感触です。

おしいな。

 

今回の帰郷のハイライトは、高校生の頃よく友達とダベっていた町役場を巡礼した時です。

夜中にひとりでそのあたりを歩いていました。

(映画作りてえとか作家になりたいとか、いっぱい語り合ったんだよなあ。この場所。)

あの頃と同じように午後ティーを階段において勢いよく煙草をふかしました。

あの頃の自分がトーキーフィルムのようにカタカタと脳裏をよぎります。

あの頃の自分は、女の子を待っているようでした。

やがてやってきたのは、色白のおとなしそうな、黒目がちの可愛らしくて透明感のある娘です。

「あ、そうだ!思い出した!高3の夏だ!この記憶!」

あの頃の自分の目つきが、少し尋常ではないようです。

可憐な女子は、そのことに気付いているのでしょうか?他愛の無い話を楽しそうにしています。あの頃の自分は話を聞いているのでしょうか?

 

聞いていません。

 

 

(そうだ…。この場所は…。)

ラムに電話した。

小栗「ラム!起きてる?」

ラム「起きてたよー。」

小栗「俺今さあ、田舎にいんのね。」

ラム「おー、そうなんだあ。どうだい?田舎は?」

小栗「どうもくそもねえんだよ。今さあ、町役場の公園にいるんだけどさ。」

ラム「おお。大丈夫?不審者に間違えられない?あ、不審者なのか。」

小栗「おお。不審者丸出しだよ。それより聞いてよ。今、俺がいるこのベンチさー。」

ラム「何?」

小栗「初めて女の子のおっぱいを揉みしだいた場所なんだよ!」

ラム「なんなのそれ!なんでそんなこと実況すんの!」

小栗「いいから聞いてよ!この感動を!」

 

と、疲れているであろうラムにその日の一部始終とその感想を述べた。

すまん。ラム。

ラム「あんたそれさ、犯罪じゃん?」

小栗「うん。今思えば犯罪だよなあ。どうしよ。」

ラム「今その娘に電話しろ。謝れ。」

小栗「まじで?まじで?」

ラム「何喜んでんの?」

 

結局、十年前の出来事ということで「時効、成立」ということに相成りました。

この記憶に触れたのが、一番感動したな。

狂った恋でした。

 

 

さて、前置きが脱線しすぎました。

 

 

だいぶ前ですが8/4だったかな?

B-amiruの公演を観ました。

前々から観たいなあと思っていまして、やっと観れたという感じです。

 

内容の紹介が苦手なので、感想だけ書きますね。

面白い!

力みの部分と脱力の部分の落差が小気味よくて、心地よい感じ。

キャストの目つきが面白いんだよなあ。

みんな目がよかった。心地よさの正体はそれだな。

 

冒頭から。

まず、思ったのは、小林さんの声。

惹き付けられる。いい声です。まずこれに感動。

しかもそれを「くだらないこと」に使うという贅沢!

「この声で、こんなしょうもない事を言うの?」

さらに、表情のボキャブラリーが豊富。

これで伝わらない〝熱〟は無いんじゃないかな。すごく説得力のある役者さんだなあと思いました。

ん?なんか「熱血役者」みたいな文章になってない?違いますよ。そんなことが言いたいんじゃない。

そして、次に感動したのは作家でもあるイチキさんの芝居。

すっごい頭の回転が早い!

なんだろ?僕は遅いので、うまく言えませんが。彼女のもつスピード感はすごい気持ち良かった。

たいがい早い人の芝居って空気感がなくってあまり好きじゃないんだけど、イチキさんは雰囲気がすごくある人なので「無理矢理笑わされている感覚」が無かった。

イチキさんが「笑われている」という、僕の好きな喜劇のスタンスだった。

潔さ、かな。

好きなんだよな。うん。単純に好き。

 

ホント、観れてよかった。楽しかったわー。

 

最初に「観たい」と興味を持ってから一年。勝手にものすんごい期待を膨らましていました。僕の想像ではバケモノクラスの芝居にまでイッてしまっていました。

ホントに僕の勝手なんですけど。

ですから、少し肩透かしを喰らったような感じもしました。

ホントに僕の勝手ですね。なぜか、脱いだり吐いたりするもんだと思ってましたから。なんでこんなイメージになってたんだろう?

 

 

終演後、あいさつさせて頂いた時に岩島さんが「ボツになった下ネタ」を見せてくださいました。

「○○○ー○!!(まったく書けない)」

「贅沢だなあ。」

 

やっぱ、役者は空気感。

板を降りてもすごく魅力的な方です。

特に岩島さんの空気は得体が知れない。

怖ささえ感じる。

 

3人ともすごい良い空気を持っていて、うらやましくさえ思う。

こうして思い返していると、ウチも負けらんねえぞ、とすごくいい刺激です。

やってることは全然違うけど。

空気。

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