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2009年10月23日 (金)

B-amiru「ペンパル狂時代」を観ました

Stage11767_1B-amiru
「ペンパル狂時代」
OFF・OFFにて
 
作・演出:イチキ游子

出演:小林由梨、青木岳美、桔川友嘉、今藤洋子、宮本奈津美(味わい堂々)、市川訓睦、田中嘉治郎(リボルブ方式)、岩島もも※声の出演、イチキ游子

「『ボクらが再び恋人として会えるまで、二人は最高のペンパルでいよう。
大好きなキミを世界一幸せにしたいから同じ文面を5人のヒトに送って下さい。』
手紙いっぱいの幸せをだきしめて、あたしは今日も駅で待つ…。
B-amiruと仲間達が個人差のある儚い恋の記憶と共に贈る、秋のオムニバス妄想浪漫!」

■「ペンパル」

僕がイチキさんの台本を好きなのは、「つつましい批評性」があるからだ。
ただの批評性ではない。それはつつましいから価値がある。
言葉を置き換えれば、シニカルさとでもいうのがいいのかな。決してシニカルではないけど。
この時代において、このタイトルをつけるということ。
もはや昭和の遺産である「ペンパル」という行為を賛美しているようにさえ感じる。しかも「狂」だ。さらに「時代」。これはむしろペンパル礼讃だ。崇高ですらある。
mixiを始めとするSNSの拡散によって、ペンパルたちは確実に駆逐されてしまった。
世界中に息をひそめるペンパルたちよ。
下北沢に来るがいい。
ここに、いるぞ。

(こんなこと書くのもなんだが)イチキさんは普段とてもつつましやかな方で、攻撃性をあまり持たない森の生き物だ。だが森が枯れていくことに怒りは感じている。当たり前だ。

その怒りの表し方があまりにユーモラスで、かつ優しい。
彼女ほどやさしい口調で人をキチガイ呼ばわりする人もめずらしい。
とにかく。
僕は「ペンパル」という単語に彼女の怒りを感じた。
しかし、よりによって選んだ言葉が「ペンパル」だ。弱い生き物の名称だ。
この辺に彼女のつつましさと優しさ、ユーモアと狂気が渾然となった凛々しい意志を感じ取れる。ここに彼女ならではのパーソナリティがある。


■男と女の描き方

そろった役者が今回の作品の雰囲気に素晴らしくマッチしていた。
今回のキーとなるエレメントは切なさだ。それもただの切なさではない。B-amiru特有の可愛くないひねくれかたをする切なさ。素直にキュンとはさせない。

狂騒の中にこそ発生する切なさ。
たとえばそれはカーニバルの太鼓の雨の中で折れた子供の腕だったり、その手の平が握っていたキャンディだったり、でも一番切ないのは、狂騒の中で誰にも気付かれなかったこと。結局キャンディをなめる事は出来なかった思ひ出。

キャストのほとんどが狂騒を自家発電できた。
かつ、静寂を慈しむように間を取っていた。
この相互作用によって、こぼれるように切ない表情が見え隠れ、悲しい言葉が語られ、結果、可愛いらしい「人間の瞬間」がしっかりと縁取られ、現れる。

コント設定のように、只単に「あのひとがすき」程度の恋心の描かれ方しかされてないのに妙に生々しく、切ない男女が描かれていたのは素晴らしかった。

たぶん。キャストのみなさんは揃いも揃って恋愛が下手くそなんじゃないだろうか。
そして、その下手さだったり下手な人というのを愛しているんじゃないだろうか。
大人ならではの悲しみと優しさが同時に発生するブルーズ。

浅川マキの「あの娘がくれたブルース」が頭から離れない。
劇中に流れたわけでもないのに。


■帰れない二人

以下、ネタバレ含みます。

オムニバスのラストを飾る「ペンパル教」が秀逸。
この世の青春系作品の王道が「ボーイミーツガール」なら、イチキ脚本の王道は「子供ミーツ変な大人」だ。
子供にしか通用しないような幼稚で誇大妄想(本人にとっては思想やライフスタイル)を持った悲しい大人。どうしようもないが、誰にも迷惑はかけない。つつましいキチガイ。
そんな大人と子供が出会う瞬間。
それは、冒険だ。


近所のおねえさんは文通が大好き。
そのおねえさんをひとりじめしたい女の子が、「ペンパル教」の教祖を名乗る変な大人に出会い、知恵を授かることになる。
女の子は架空の男の名を語り、おねえさんのペンパルになる。
ペンパルテクニックで女の子が書いたニセ男の子に、おねえさんは夢中になっていく。

女の子の孤独がいい。
おねえさんの純情がいい。
場面場面の感情に嘘がないから、ストーリーに渋みがでる。おそらく必要のない渋みが。
いやあ、よかった。
女の子は嘘という罪を犯した。己の独占欲と孤独の癒しのためにおねえさんの純情を騙した。
おねえさんは堕落という罪を犯した。己の利己的な欲求のためにそばにいる人間を思いやることができなかった。
ふたりとも悪気はなかったのに、多くの人間に迷惑をかけた。
その結果、どこにも行けなかった二人は、どこにも帰れなかった。一歩も動かなかったのに、互いを失ってしまった。
純粋さが故に罪を犯す悲しみが悲しかった。
その後悔の様が、美しかった。

美しかったのは、表現者の側にキャラクターたちに対する「赦し」があったからじゃないだろうか。とても優しい瞬間だった。聞くところによれば、女の子の芝居に関しては「イノセントで」という演出指示があったそうだ。

イノセンスという言葉の意味には「純粋さ」という意味のほかにもうひとつある。



「無罪」

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