« 澄み切った色のその先に散る | トップページ | それでも恋は恋 »

2009年8月10日 (月)

青☆組「花とアスファルト」を観ました

0.誰かの私生活を通り抜け
Stage9265_1 小竹向原の駅を出て、ゴルフ練習場の合間の道を抜ける。
小さくて硬質な高密度の破裂音を耳にしながら、誰もいない交差点を抜ける。
夜になったばかりのアパートが連なる。
塀で猫が何かを悩んでいる。
かくれんぼをしている大人しいこどものように、息をひそめてその劇場はあった。
「アトリエ春風舎」

月が浮かんでいた。
月が動いたら、何か巨大な音がしそうだった。
月がそんな風に見えるとき、
いつも喪失の予感がする。

 

1.すみれ

青☆組HP より)
「花とアスファルト」
『生活の中で誰かに出会うということと、人生の中で誰かに出会うということは違う、と言っていたのは、どの小説家だったろうか・・。
さて、今回は、愛読しているいくつかの小説にインスパイアされて生まれたおはなしです。
おはなしは、こんな風にはじまります・・うららかな春のある日、小さな町の小さな団地に、「とても珍しい」住人が引っ越してきた。
ひとりは、女。
もうひとりは、・・妙に毛深い。爪もある。いたって温厚だが、どうやら、クマだ。
きっと、素朴な作品になると思います。
長いこと忘れていた、夏休みのあの日みたいな、そんな素朴な味を地道に煮詰めて美味しく仕上げたいと思っています。そっと、爪を立てながら。
ぜひ、遊びにきてください。』

以上が作品キャッチ。
まるで久しぶりの友人から届いた手紙のようだ。

【久しぶり】とはつまり過去というものを共有している仲ということだ。
「ひさしぶりじゃーん」
と笑顔で再会するなら、大して時間は経っていない。まだ記憶は鮮明で、会話はむかしがたりよりも、むしろこれからのことや最近の愚痴を語るだろう。

「本当にひさしぶりだね」
と少しこわばった微笑みで再会するなら、随分と時間が経ってしまった。
往々にして自分の覚えていないようなエピソードを相手は知っているものだし、思い出したくないような事を思い出してしまうかも知れない。
だから反射的にこわばってしまう。

ひさしぶりだね、とも言う合うこともないような再会もある。
そんな再会をする相手は、ただひとりだ。
それは最もかけがえのない存在。

その存在は、
すみれの花のようにつつましく、小さく。
かよわい声で叫ぶ。
人生で出合った誰よりも正しく、誰よりも強い言葉を持つ。 

 

2..なめとこやま

青☆組は今回で2回目の観劇となる。
前回は短編で、奥さんがたくさんいる旦那さんのお話だった。
家族倫理がちょっとばかり狂ってしまったフィクションだったが、これが面白かった。
僕が敬愛する藤子・F・不二雄先生の短編で描かれるような、すこし(S)ふしぎな(F)世界。
誰にでも書けるものでもない。
藤子式SFを成立させるには、作家自身の常軌を逸したパーソナリティが必須だ。
常軌を完全に逸脱した=人間離れした「やさしさ」が必要なのだ。

今回は「花とアスファルト」。
主人公は獣。ヒロインは初老の女性。
藤子作品でもよくモチーフにされる「ストレンジャーもの」である。
ストレンジャー=よそもの、異物。
みんな馴れすぎてピンとこないかもしれないけど、ドラえもんだって異物のものがたりなんだよ。 

この作品は吉田小夏の世界だ。
セットは単色にして淡色。椅子が丸く配置され、周りをコロッセオのように階段とささやかな踊り場が囲む。
世界に丸があり、そこにくまがいる。
一発で宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を思い出した。
(まあ、この作品のストレンジャーはまたぎだけど)

刺激をされたのだろう。
くまの集落でおまつりの日に死んでしまう女の子の物語が僕の頭を覆った。
女の子は急性クモ膜下出血で、くまたちが何のすべもなくうろたえて、泣いている映像。
つめがあるし、毛が硬いから抱けない。
せめて、その骸を抱きたいのに。

 

3.森はどこにある

ここにもかいたんだけど

くまがピクニックで彼女の足だけをスケッチする(けどうまくかけない)シーン。
それがチラシの写真とリンクするところ。
くまが描こうとしていたのは、彼女が少女だった頃の足だった。
と、いうところでシビれた。くま、かっこいいじゃねえか、と。
でも描けないんだ。
くま、寿命が短いから。もう機能的に、絵なんか描けないんだよ。

最後の別れで、何の逆転もなかったさみしさ。
くまが最後の挨拶でたべもののことばかりお礼を言うところ。
ほんとにさみしくなっちゃったよ。

そして、森に帰る。
くまが住んでいた団地のほとんどのひとがさみしがらないで、日常はロールしまくっている。
彼が帰るのに、たいした理由はなかったから、さらにさみしくなった。
なんで森に帰ってしまったのだろう。

そこは、特別な森なんだろうな。
生き物にはみんな、帰るための森がある。

彼が帰った森は、
自分の幼少期における傷をたくさん閉じ込めている、記憶の森なんだろう。
以前自分のおじいちゃんが死んだ時に思ったが、おじいちゃんは最後、少年に戻って死んだ。
たぶん、死ぬっていうのはそういうことだ。
そういや葬式の時、僕の母が娘に戻っちゃってたな。あれは美しかった。

今回の作品で吉田小夏が描いたもの。
それは舞台となった団地から遠く離れた場所に、夕陽を背に巨大な影となってたたずむ、やさしい森だ。
それは遠い。
本当に気が遠くなるほど遠い。
遠い場所にある。

少女の足でそこまで歩くのは大変だったろう。

 

4.花とアスファルト

相反的な要素を持ち合わせている作家は面白いと思う。
今回のタイトルなんかは、まさしく小夏さんの相反的な要素そのままだ。
物語が、その両極端に振り切れる時、客席にいるとなんとなく音楽が聞こえてくる。

花のエレメントでは、両手を広げているような光のイメージ。
たとえば、
メグ・ベアード「Dear Companion」

アスファルトのエレメントでは、家のどこかに隠れて、自分しか知らない最高に楽しい遊びをしているイメージ。もちろん見つかったら怒られるような遊びだ。
家が団地ならなおさら隠れるスリルが高い。
ヨ・ラ・テンゴ「The Summer」

 

5.喪失

僕も最近、プロットを書きつづけている。
ネタ帳を見ると、自分も女を描写することが多い作家なので、なにかしら女性に関するメモ書きが多い。
その中で
「壮絶な処女の喪い方」
というメモがあった。
この一言しか書いていなかったので、具体的に何を考えていたのか覚えていないが、なんとなくわかる。
もし、本編でこのイメージを採用し、描くとしたら。
できれば書きたくないシーンだろう。
でも、一番美しいシーンになる可能性も秘めている。
残酷なシーンとはそういうものだ。
目を背けたくなるものほど、逃れられないものがある。
忘れられない感情になる。
たとえばリリィ・シュシュのレイプシーンとかね。
呑んでいるとき岩井俊二の話になると決まってこのシーンの話になって、酔いが醒める。

絶対に小夏さんはそういうものは書かないだろうけど、
もしも彼女がそういうものを書いたとしたら。
この映画 みたいにすごいことになるだろうな、と思った。

「青☆組」は完成されているだとか、洗練されているだとか安心できるとかいう評判をよく聞くけど、僕は逆のものを感じる。

「花」の要素でも「アスファルト」の要素でも、潜在しているエネルギーがでかい。
彼女が何かを喪失した時、そいつらがバケモノになって板の上に(もしくはスクリーンに)現れるんじゃないだろうか。
と。
そういうインスピレーション。
ただの直感なので頼りない論ではあるが。

|

« 澄み切った色のその先に散る | トップページ | それでも恋は恋 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/103733/30906083

この記事へのトラックバック一覧です: 青☆組「花とアスファルト」を観ました:

« 澄み切った色のその先に散る | トップページ | それでも恋は恋 »