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2009年7月 1日 (水)

Reset-N「眠るために目醒める」を観ました

0.タコパ

昨日催されたタコヤキパーティのおかげもあって、
ここ最近の精神的な弱まりも解消された。
パーティの素晴らしさを思い出したよ。
たかがたこ焼で大騒ぎしていた俺たちは素敵だったと思う。いや、「たかが」じゃない。
たこ焼は偉大な食べ物だ。
たこ焼に多くの未来を見出した昨夜の俺たちは、どこまでも正しかった。
 

 

1.透明

明けて、本日。

初のReset-N観劇。王子小劇場にて。
Nemuru700

 
 
 
 
 
 

特筆すべきは、やはり「透明感」。
これに尽きる。

「透明感」の理由を追求することがResetを語るということなんじゃないだろうか。
観念的ではある。
だが、今、僕の頭の中に巣食っているこの観念を写実して語ることができたら、何かしらアートの本質に近づけるんじゃないだろうか。

今日の記事はそんな挑みで書いてみる。

Reset-N「眠るために目醒める」

【作・演出】 夏井孝裕

【出演】
 鶴牧 万里/原田 紀行/田中 のり子/山田 奈々子
 日高 勝郎(InnocentSphere)/山前 麻緒(劇団夜想会)/西尾 美鈴

【作品概要】
役名はすべて本人。
今回の作品を作る過程がドキュメントとして描写されている。メタフィクション。
演出家が来ない稽古場と、その演出家の部屋との二場面で構成される。
いわゆる「物語」はない。

 

 

2.風景

日常そのものが舞台の上に寝そべっている。
それをナイフとフォークで丁寧に切り分け、少しずつ少しずつ口に運ぶような、ある意味変質的な食事を想起させる、奇妙な肌触り。(その点では三島由紀夫っぽいかも。)

舞台装置、照明、音響の噛みあい方がすごい。
素晴らしい可視環境。

台本の言葉と、役者の声と、眼前の色合いが渾然一体となっているのに、
ここに一切のカオスがない。
風景がどこまでも深い、透明。

たしかに大衆性は無いかもしれないが、
(そもそも「大衆性」なぞ相対的な価値でしかない。)
この作品の面白いところは大衆性が皆無であるのに、強固な普遍性があったことだ。

決して特異な劇団ではないと思う。
このような試みをポップシーンに提示してきたアーティストは多くいる。
僕がReset-Nを観て連想したのは、二枚のアルバム。
それは後世のポップミュージックに多大な影響を与えたバンドだ。

 

 

3.アンダーグラウンド

ひとつは、60年代のNY、Factoryと呼ばれる工房で活動していたバンド、
「The Velvet Underground」
卑猥で猥雑な実験的ノイズ
ビートニク的感性で完膚なきまでにソリッドに描かれた歌詞
不気味なほどに優しいメロディーライン
女性の独り言を回想する楽曲「Candy says」に始まり、目覚めへの恐怖を綴った「After hours」に終わる、ヴェルヴェッツのサードアルバム「Ⅲ」(奇妙な一致だ!)
今回の作品の退廃性とその甘美、つまりはデカダンスという背徳の果実がステージの上にあったということだ。

もうひとつは、
90年代、偉大なバンド、
「My Bloody valentine」
90年代のロックミュージックにおける最も重要なバンドのひとつ。
アルバム「Loveless」は、シューゲイザーと呼ばれたカテゴリーでは金字塔である。
このアルバムで表現されているのは、血の雨が40日40夜に渡り凶暴に降り注ぎ、やがて世界が羊水の洪水で滅亡してしまうような圧倒的な音像。
なんだろ。
死ねば死ぬほど産まれてくる、というか。
生物のおぞましさを、これまた甘美な味に仕上げた美しいアルバムだ。

Reset-N「眠るために目醒める」

実は、この作品で描かれていたものは「退廃」なのではないだろうか。
眠ったままのヒロイン。
自らのエゴに埋没した演出家。
夢想家の作家。
無力な役者たち。

実は誰も、出口が見つかっていない。
実は何も解決していない。
未来に希望を持てない状況を「退廃」と呼ぶ。

「退廃」を肯定的に描写する。
ぶっちゃけ、この行為は人としてタブーだ。 
そして、このタブーに触れることは…。

あえて、(誤解を覚悟で)本音で言ってしまおう。
タブーは、
人間の快楽だ。

人類史上最大のベストセラーである「聖書」に出てくるキャラクターにアダムというすっぽんぽんの男がいるが、こいつは人類の祖なんだそうだ。 
んで、こいつがほんと誘惑に弱くて、神様が「駄目だよ」っていったことばかりするし、食べるなって言われたらすぐ食べちゃう。
林檎が好物。だって食べちゃ駄目な果実だから。
「味なんかどうでもよかった。」

でも、最高の味だったんだろう。

アーティストにとって、アンダーグラウンドで活動するということの最大の目的は、
この果実なのかもしれない。  

 

 

4.夢

劇中、演劇の本質について語られる。
「目に見えないものを見せる」 

こういったアイロニーは、夏井さんの台本の可愛らしい魅力だ。

演劇は、面白い。
お客さんの目の前で、生でやっている。

実はこの「生」。
最大の面白さは、生でやることのスリルではない。
眼前で起きる迫力でも緊張感でもない。 

演劇は、一度劇場で椅子に座ってしまえば、そこから動けない。
その椅子からの風景のみが、「見えている」風景である。 
しかし、多くの演劇作品の真のゴールは、ここで「見えていない」風景にこそある。
シェイクスピアも、モーパッサンも、デヴィッド・オーバーンもそう。
この矛盾が演劇の面白さだと、僕は思う。 

見えている景色は「ヨリシロ」にすぎない。
ようはこの可視環境の向こうの景色がどれだけ、見えるか。
見えるものは、
遠ければ遠いほどよい。
多ければ多いほどよい。 
深ければ深いほどよい。
実に単純な価値基準だ。

一番「見えている」状態とは、つまり、透明であるということ。

完全に「醒めている」状態が必要となる。 

今まで僕は、この透明感は劇作家の純性に依るものだと思っていた。
そしてこの純性を支えるものが、愛という観念なのだと思っていた。
それが見事に覆された。 
愛は、夢の中でしか生きられない。

愛は、感情だ。
感情は現実を濁らせる。景色を濁らせる。
そのくせ記憶を美化する。
人間関係を美化する。
かけがいのないものほど、景色を濁らせてしまうと言う矛盾。

醒めるためには、それらを否定しなければならない。

 

 

5.宮本とパンを食う

終演後、宮本奈津美と会った。
彼女もまた、この作品の観劇に来ていた。
劇場近くの店でパンを食いながら、お互いの近況について報告し合う。
チェリーブロッサムハイスクールの公演時には、何度か主役をやってもらった宮本。
主役をぶつけて書く、という行為はなかなか面白い現象が起きる。
大抵は主役が作家の、一番の分身である場合が多い。
血が似てくる感覚というか、肉親のように直感的に分かる部分があったり、双子のように同じ病がリンクしたり。

お互いにいろいろと話す内、なんだか泣きそうになった。
俺も宮本も繊細なんだと思う。

でもな、宮本。
この繊細さは、今の俺たちの首を絞めている原因のひとつではあるんだぜ。 
傷つくことを恐がらずに、笑いながら板の上で生きていくべきだ。
どんなことがあっても、だ。

と、ここまで書いて思う。

チェリーブロッサムハイスクールを辞めて、今後はひとりでやっていくわけだが。
今の俺を支えてくれている人たち、みんな繊細で、みんな笑顔が可愛い。
そして、ひとりのこらず変態だ。
人は、歪みこそが可愛いし、愛おしい。

話してないし、面識さえないけど、
Reset-Nの夏井さん、愛おしい。
人間の繊細さは弱点だし、
英訳の「ナイーヴ」は馬鹿って意味だったりする。
得てしてネガティヴな要素だし、僕は自分の繊細さを呪ったり、許容したり大いに苦しみながら生活してきた。

だから、 
繊細さを武器に変えれる人をみると、すごく嬉しくなるし勇気がわく。
ある意味、ヒーロー的でさえある。
あんなとこからビームだすのかよ!みたいな喜び。

夏井さんに限らず、そういったアーティストをたくさん知っているが、夏井さんはなんか、その中でも特殊な気がする。
その特殊さが何なのかは、今はわからない。

漠然とした、勘でしかないが。

いつかReset-Nの作品から繊細さが消えた時、
新たなポップのスタンダードが生まれるだろう。

その日、もしかしたら淘汰の時代が始まるかもしれない。
また新しい時代が始まる。

その時が来るとして、
僕は「キコ」という娘と共に、板の上に立っていたい。
カーテンコールで笑いたいし、打ち上げで泣きたい。

まずはホームページビルダーか…。
企画書かいて、いろんな人に会おう。
楽しみだ。

結局俺の話になっちゃったな。

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