はなよめのまち(仮)
0.ねむれぬよるにさけをのみ
さあて、
次はどんな物語を書こうかな、と思いながら。
なんとなく、mixiのプロフィールページに
何も決まっていないデタラメの企画をでっちあげて掲載してみた。
何の意味もないし、ただのいたづらだ。
で、作品キャッチみたいなのをツラツラと書いていた。
意外と長くなってしまったので、こっちに載せることにした。
馬鹿みたいにセンシティブな感触にしたいなあ、というのはあって。
(ちなみにmixiはこれ。アクセスしちゃ駄目だよ。)
1.はなよめのまち(仮)
イメージはちょっとずつ降ってきている。
まだまだだな。
単純に量が足りない。
お客様をブチ殺すには、まだまだ情念が足りない。
やっぱ登場人物を先に煮込むか…。
町の風景を先に見ておこう。
(以下、作品イメージ)
あしたかなた。
明日になれば、あたしは女になる。
明日が恐くて仕方が無いあたしは、今日を精一杯生きている。
無様に、もがいて、抗って、祈って、強く思えば、
明日が来ないかもしれない。
あたしはがんばっている。
港の喫茶店から、海を見ていた。
キラキラと晴れている。
あれは最後の雲だ。
明日からのあたしは、もうあたしじゃない。
かえりみち。
郵便局の角を曲がって、忌まわしい旅館に戻る。
草葉のにほいが、あたしの貧相な胸を締め上げる。
こんな痛みも、今日で最後だ。
いつものように裏口の階段を上り、
手すりの白い塗装で袖を汚しながら、
丘の向こうに堕ちていく、錆びた紅を見ていた。
ふしだらな光が散乱している、あたたかな夕暮れ。
あしたがくるあしたがくるあしたがくるあしたがあたしをさらいにくる
たすけてよ
このまちには愛がない。
頬に伝ったつめたい感覚は、小さな雨だった。
笑いながら、
碧く碧く降ってくる。
真夜中に、あたしは桃色になります。
こわれた階段を降りたら、その踊り場に君が居たらいいのに。
ここで、
真夜中まで待っています。
まっくらな花が湧いて、ゆっくりと楽しくなっていくんだ。
あした、はるかかなたにみえる。
2.観音さま
敬愛するエッセイスト、杉浦日向子さんの一節が好きだ。
“俗に、遊女を「生きた観音様」という。
観音はひらく。
観音はゆるす。
観音はすくう。
遊女が客を満足させることを「ぶち殺す」という。
女ひとりで千人あまりの男を昇天させる。
遊女の赤いふとんの上は天上界で、
そこでは現世の約束は通用しない。
世間的な体面や地位をはぎとり、
一個の肉塊としてなぶり殺しにするのが最高のもてなしだ。
殺された翌朝は、まっさらな魂に生まれ変わって、送り出される。
そして、
死にきれぬ野郎は、
永劫の観音詣でにとらわれるのである。”
3.スタイルと方法論
「語られるべきはその内容や精神性ではなく、その方法である。」
なんだったか、いつだったか忘れたけど、創作というものを学ぶ上でずっと気にしていた言葉。
ようは、エゴにとらわれてはいけませんよ。
ちゃんと客観視しましょうね。
ということだ。と、思う。
僕がよく、女性視点で書くのも方法論のひとつだ。
プロットの組み方(汲みかた)もメソッドがある。
そういった無感情の作業を置くことで、いわゆるオナニー作品という失敗を回避できる。
自己愛の強い作品は嫌われる。
特に、ポップカルチャーにニヒリズムが蔓延しはじめた80年代中盤以降は、作品を作る上でのシニシズムが重要性を増した。
クリエイトよりも、セレクトが重宝された。カタログアーティストが幅を利かせた。
そのせいか、ウェルメイドな作品が激減するという反作用も起きる。
90年代における、アマチュアリズムの台頭である。
おれ、ズムズムうるせいな。この話やめよ。
ようは、これからの演劇だったり音楽だったりのポップカルチャーは、無鉄砲に行こうよということが言いたい。
スタイルも方法論も、たとえその全てが、自らが構築したものであったとしても、絶対に依存してはいけない。
乗る舟はいつも、方舟ではなくドロ舟であるべきだ。
ひとりでの作業の段階ではことさら。
うん。
お客さんは方舟に。俺たちはドロ舟に。
4.生きながらブルーズに葬られるために
そういうわけで、今の僕はドロ舟作りに執心中だ。
この作業はまるで、
少年期の砂場の王国を彷彿とさせる。
恥ずかしく、かつ誇らしい僕だけの王国。
ユナイテッド・キングダム・オブ・グレイト・オグリ。
4才児の世界から始まる。
やがて小5の残虐性と圧倒的な陽気さを携え、
14歳のセックスと切なさを持ち寄り、
17歳の切実なイノセンスを飲み込みながら、
今現在(32歳)のブルーズをもって、この国の感情を鳴らす。
「世界を救う」という漠然とした、
幼稚で誇大な夢と、もう少し付き合おう。
たくさん作品を作りたい。
つとに思う。
多くの命に触れていたい。
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