「アキストゼネコ」で伝えたかったこと
のっけからトチ狂った事を言ってしまうが。
良質な台本に必要な「構成力」や「緻密さ」というのがどうも苦手だ。
毎回非常に苦しむ。
あとは、「どんでん返し」とか。そういうのも苦手。
小学生の頃からとにかく「起承転結」にアレルギーがあって。
高校生の頃に小説を書き始めたんだけど、まずそれを無視することから始めた。
初志として
「何も起こらない物語」をいかに面白く書けるか、という挑戦から始まった。
もう一文字目からそうだった。
思えばスタンダードなものを書く気が一切なかった。
もちろん、相当難しい試みなので未だに未完だ。
根本的にひねくれている。
やっぱ捻じ曲がった性分の人間なんだろう。
この小説はもう8年以上手をつけていない。
「スノウ(イズ)ホワイト」という、栃木県の真岡市を舞台にした青春群像。
食事のシーンでは口を拭うティッシュの銘柄までディティールを描く極端な写実。
叙情的な冬の午前の太陽の下で行われる儀礼的な喫煙。
田舎の高校生の友情が真綿が燃えるようなチリジリ感で崩壊していく心理描写。
ポエトリーな情景描写を交えながら各登場人物の一人称で細かく構成していく。
これは、タナトスの話だな。
10代だけが持ち得る「死への憧憬」。
重要人物が唐突に自殺するし、モッズ的感性で同世代のユースカルチャーを過剰にコケにしたり。不条理な暴力が支配する夜の校庭のシーンがあったり。そのくせ合格発表なんていうどうでもいいシーンをものすごく綺麗に書いたり。
思えば、この時既に主人公が不感症な上に女子を平気で殴ったり、ヒロインがヒステリーの末に失言症になったりと、なんか、今とコアな部分でブレがない。いい意味でも悪い意味でも。いや、悪いかな。悪いかも。
「アキストゼネコ」を遡っていくと、この「スノウ(イズ)ホワイト」に到達する。
「スノウ(イズ)ホワイト」
ようはこのタイトルなんだけど、「白雪姫」に余計なものをはさんでいる。
そうすると「雪は白い」というタイトルになる。
この頃、すごく不安だったのが実感のなさだった。
「雪は白い」ということを僕はまったく理解できなかった。
これは恐怖だったし、この恐怖を克服したかった。
これはつまり、子供のころにあったはちきれんばかりの「実感」を17歳のカラダで奪還するという、言わば切実な試みでもあり、同時に、なんつうか、ひらたく言えばノイローゼだった。
んで、「実感」をダイレクトに実践できる、最もたる行為が「人のカラダに触れる」ことだと思った。
(この考えは今も変わらない)
もしかしたら単にセックスがしたかっただけかもしれないが、だったら尚更この仮説は正しい。リビドーに直結する論理だ。
そんなこんなで、「触れる」ということの素晴らしさとおぞましさを表現するということは、僕の表現欲求の根源だったりする。
実はこの表現を試みたことは今回の「アキストゼネコ」が初めてではない。
PLAY_③「まるで算数を知らないこどもたち」でもチャレンジしている。
ラム演じる「D」が自らが殺めたコナツという娘を抱きしめたいと懇願するラストシーンがそれだ。罪悪感から自ら志願しロボトミー手術を受け、記憶を持たない検体となった「D」が心の内の「穢れた愛」に殉じようとするスクリプト。
今回の宮本が演じた「ノノ」も同じ。すでに死んでしまって触れられない自分の片割れ「ネネ」のカラダに触れたいと願う。
そのために「まるで算数を知らないこどもたち」では相対性理論を持ち出して時間を戻そうとした。
「アキストゼネコ」では双子である自分が特殊なDNAを受け継ぐ子供を作り、記憶を移植することで「理論上」ネネを生き返らせようとした。
バカだなあと思う。
配役の妙ではあるが、「D」を演じたラムが「チーコ」として宮本の「ノノ」を殴り、諭したのはこの二作品の偶然であり必然なのではないだろうか。
「まる算」で許したことを「アキストゼネコ」で僕は許さなかった。
時間が戻ったり、人間が生き返ったり。
そういうことを今回の僕は否定した。
触れられない君を思うこと。
だからこそ触れられる目の前のカラダをめいっぱい愛して欲しい。
抱きしめていいんだよ。
触れていいんだよ。
明日、そのカラダに二度と触れられなくなるかもしれないんだから。
僕たち日本人はスキンシップの替わりに、たくさん言葉をもっていた。
でも、そのボキャブラリーはもう、減ってしまった。無くなってしまった。
言葉もない。
触れる勇気もない。
だったらどうしたらいい?
その一歩を踏み出す感性を伝えたいんだよな。
もっともっと頑張ろう。
これが伝わって、みんながたくさん、しあわせなセックスをして、かわいい子供がたくさん産まれてくれたら。
ぼくはしんでもいい。
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